電話を切ったあと、弥生はスマホをそっと横に置いた。もう寝ないと......今日思い出したことについては、何かしらの証拠を見つける必要がある。そうでなければ、誰も自分の言葉を信じてはくれないだろう。何しろ、あれからもう何年も経っている。いまさらどうやって証明すればいいというのか、それ自体が大きな問題だった。布団に横になったものの、弥生にはまったく眠気が訪れなかった。頭の中には、ようやく蘇ったあの映像たちがずっと流れ続けていた。考えれば考えるほど、胸のあたりがどんどん詰まっていくような感覚が強くなっていく。あの頃、奈々が瑛介を助けたということで、彼は彼女に特別な想いを抱くようになった。もともと彼と遊ぶのは自分だけだったのに、そこに奈々が加わってからは、ずっと嫉妬していた。ひどいときには、「もし助けたのが私だったらよかったのに」なんて、そんな妄想までしていた。まさか本当に、自分が助けた側だったなんて......しかも、その功績を奈々に奪われていただなんて。思えば思うほど、弥生の瞳はじわりと細められていった。あの時、瑛介をなんとか岸まで運んだあと、奈々は弥生に手を差し伸べることなく、仕舞いにはそれを自分の手柄として名乗りを上げた。つまり、彼女は弥生が水の中にいて、流されて見えなくなったことを知っていたはずなのに、誰にも伝えず、沈黙を保ったのだ。細かく思い返すうちに、弥生の背中にはじっとりと冷や汗がにじんできた。奈々のあの性格、自分の家が破産したあとのあの「親切」も、もしかしたら......何か別の目的があったのでは?思考に沈み込んでいた弥生は、不意にスマホが震える音を聞いたような気がした。我に返って画面を見てみると、またしても瑛介からの着信だった。こんなに時間が経ってから、どうしてまた......もう話すことなんて何もない。だから弥生はそのまま着信を見つめながら、無言で放置した。もう深夜だし、さすがに一度無視されれば、二度はかけてこないだろう。予想通り、コール音は鳴り止み、それ以上の着信はなかった。だが、その代わりに瑛介から一通のメッセージが届いた。「今、君の家に来ている」画面を見た弥生は、思わず固まってしまった。彼が......ここにいる?さっきの電話から時間が開いたのは、移動
ついに、意識さえも途切れてしまった。過去の記憶が、まるで映画のように弥生の脳裏を流れていく。かつてまったく思い出せなかった出来事が、いまは細部まではっきりと浮かんできた。すべてを思い出した瞬間、弥生の呼吸は激しく乱れ、思わず胸を押さえて大きく息を吸い込んだ。どういうこと?瑛介を助けたのは、自分だったなんて!?じゃあ、奈々は?当時はたしか、「奈々が瑛介の命の恩人」って言われていたはずだった。それなのに、どうして自分がこんな記憶を持っているの? 奈々が自分の成果を横取りしたのか、それとも自分の記憶が違っているのか。でも、もし記憶違いだとしたら、どうしてこんなに鮮明で、リアルなんだろう?一時の間、弥生の呼吸は乱れたまま落ち着かなかった。十数分が過ぎて、ようやくベッドの上で身を起こした彼女は、スマホを手に取り、瑛介の番号を探し出した。そして、電話をかけようと指を滑らせた。その動作はとても素早かったが、電話がつながった瞬間、弥生はハッと我に返り、あわてて通話を切った。その後、悔しげに額を手で押さえた。何してるの、私......こんな時間に瑛介に電話して、何を話すつもりだったの? まさか、「君を助けたのは奈々じゃなくて私よ」とか言うの?信じるわけがない。もう何年も前のことを、今さら数言で伝えたところで、説得力なんてあるはずがない。そもそも、もし今この出来事を他人から聞かされたとしても、証拠がなければ、弥生自身ですら信じなかったに違いない。でも、その証拠がどこにあるというの?当時、瑛介が奈々の言葉を信じたのも無理はなかった。彼は気を失っていて、自分を助けた人間の顔なんて見ていない。そして、自分はその後、川に流されて姿を消していた。傍にいたのは奈々ただ一人だから、誰だって「奈々が助けた」と思うはずだ。今さら「実は助けたのは私だった」と言ったところで、「成果を横取りしようとしてる」としか思われないに違いない。そう考えていたそのとき、スマホが突然震えた。画面を見ると、瑛介からの着信だった。きっと、さっき自分がかけた電話に彼が気づいて、折り返してきたのだろう。何を話せば良いのか分からなかった。そう思いながらも、弥生は少し考えてから電話を取った。「もしもし、何かご用?」瑛介の声はどこ
これまでずっと思い出すことのなかった記憶が、断片的に蘇り、弥生の心に波紋を広げた。あの日、瑛介は足を滑らせて川に落ちた。彼は幼い頃に溺れた経験があって、それ以来ずっと水に対して恐怖心を抱いており、泳ぎも習っていなかった。弥生と瑛介はクラスが違ったため、外出のときは大抵、弥生は自分のクラスの友達と一緒に行動していた。あの時も、隣の机の友達が「川辺で散歩に行こう」と提案してきた。二人でいざ出発したが、途中でその友達が「忘れ物をしたから、先に川辺で待ってて」と言い、弥生は一人で川辺に向かった。春先の川辺にはまだ冷気が残っており、吹きつける風に思わず肩をすくめた弥生は、「やっぱり帰って友達に、今日は寒いからやめようって言おうかな」と迷っていた。こんな寒い中で水遊びなんて、風邪をひくかもしれない。そう思いながら引き返そうとしたその時、突然「助けて!」という叫び声が聞こえた。声のする方を見ると、そこには奈々がいて、必死に叫んでいた。「誰かいませんか!助けて!川に落ちた人がいます!」誰が落ちたの?誰かが川に落ちたと気づいた弥生は、反射的に足元の靴を脱ぎ、走りながらあたりを見た。そして、川に浮かんでいるのが瑛介だと気づいた瞬間、魂が抜けるほどの恐怖に襲われた。どうして彼が川に?彼は水が怖いんじゃなかったの?そんな考えは瞬時に吹き飛び、弥生はすぐさま上着を脱ぎ捨てて薄手のインナー姿になり、なおも叫び続ける奈々の横を駆け抜けると、そのまま迷いなく川へ飛び込んだ。川の水は氷のように冷たく、飛び込んだ瞬間、体が一気に凍りつくような感覚に襲われた。それでも、瑛介を助けなければという一心で、必死に水をかき分けて進んだ。しかし、川の流れは激しく、ようやくの思いで彼のもとにたどり着いた。その時の瑛介はすでに水を呑んで気を失っていた。だが、それがかえって良かった。なぜなら溺れている人が意識を保っていると、助けようとする者にしがみついてしまい、かえって命を危険にさらすことがあるからだ。弥生は必死に彼を岸へと引っ張った。冷たい川の水の中で、手足の感覚はどんどん鈍くなっていった。ようやく瑛介を岸辺に押し上げると、奈々が駆け寄ってきて彼を引き上げた。しかし、奈々は瑛介のことだけを気にしており、弥生のことにはまったく目もく
自殺すれば瑛介の同情を引けると思っていたのに、全く効果がないとは思いもしなかった。奈々は苛立ちながら母親を見つめた。「ママ、絶対うまくいくって言ってたじゃない。なのに、今は瑛介が電話にも出てくれない。彼、私のこと本当に見限ったんじゃないの?もう二度と会ってくれないんじゃ......」母親は唇を噛みしめた。「まさか、瑛介がここまで手強い相手だったとは......」「全部ママのせいよ!」奈々は悔しそうに泣き出した。「ママが彼に薬を盛れなんて言うから、私たちの関係がこんなふうになったのよ。あんなことしなければ、私はまだ彼のそばにいられたかもしれないのに......」彼女の泣きじゃくる姿に、母親は苛立ちを募らせ、ついには目を細めて彼女を責め始めた。「そもそも、あんたが無能すぎるのが悪いんでしょ?だから私があんな手段を考えなきゃならなかったのよ。せっかく手に入れた男を自分のせいで逃がすなんて、自業自得じゃない。そんな甘ったれた態度で、よく彼のそばにいようなんて思えるわね!」母親の罵倒に、奈々は昨夜知らない男との出来事思い出し、心の底から嫌悪感がこみ上げてきた。自分自身の無力さも、余計な口出しをした母親のことも、すべてが憎らしくなった。彼女の爪は、拳を握りしめるたびに、皮膚に食い込んでいた。一方で、弥生の家では。寝る前に、ひなのがふと弥生に尋ねた。「ママ、今夜もおじさん、うちに泊まりに来るの?」弥生はその問いに、表情を崩しかけたが、すぐに落ち着きを取り戻して答えた。「今日は来ないわ」その答えを聞いて、ひなのはほんの少しだけがっかりしたような顔を見せた。「そうなんだ......」「どうして?来てほしかったの?」そう聞くと、ひなのはにっこりと笑って、嬉しそうにうなずいた。「うん!だって、おじさんは、ひなのとお兄ちゃんのパパになるんでしょ?そしたら、悪い人を追い払ってくれるよね!」子どもの心はいつでも素直で、思っていることをそのまま口にする。「それにね、おじさんはママにもとっても優しいし、ママだって誰かに守ってもらわなきゃ!」それを聞いて、弥生は思わず微笑み、ひなのの頭を優しく撫でた。「ママは大丈夫。ひなのと陽平をちゃんと守っていければ、それでいいの。さあ、もう寝ましょうね」「じゃあ、ママ
ただ弥生の名前を聞いただけであんなに興奮したのだから、もし彼女が「実は子どもを二人産んでいた」と言ったら、母さんはどれだけ騒ぐかは分からない。とはいえ、その事実を瑛介はまだ伝えるつもりはなかった。なにしろ......弥生はまだ、彼を受け入れていない。彼女はいまだに、「瑛介が子どもを奪いに来るのではないか」と恐れている節がある。母のあの性格なら、子どもの存在を知ったら大喜びするに違いない。だが、もし彼女が子どもの存在を知り、それを見に行こうとした時に、間違いなく、母親を止めることはできない。母さんの過剰な好意は、きっと弥生を怯えさせてしまう。だからこそ、この件は、しばらく伏せておくつもりだった。だが、先ほどの「興奮して眠れないかもしれない」という瑛介の一言に、瑛介の母は気づいたようだった。「何か良いことでも?まさか、あの子と復縁したの?」まだ説明する間もなく、母は勝手に結論へと飛躍していった。「そうなのね?君たちが復縁したから、奈々が焦って、汚い手を使って君を縛ろうとしたのよね?当たってるでしょ?」瑛介の顔に、複雑な表情が浮かんだ。まさか母の推察力がここまで鋭いとは。まったく予想外だった。正確には、まだ弥生とは復縁していない。「......違うよ」瑛介は肩をすくめながら否定した。「違う?じゃあ、奈々が急に仕掛けてきた理由は?あの子、5年間もおとなしくそばにいたのに、最近になって急に変になったでしょ。何かきっかけがあったとしか思えないわ」「......あえて言うなら、復縁しようとしたけど断られたという感じかな」瑛介の母はしばし沈黙し、やがて冷たく言った。「......まあ、君が過去にやらかしたこと考えたら、振られて当然ね」心の中を見透かされたようで、瑛介は苦笑を漏らした。「うん、確かに......自業自得だ」それを素直に認めるしかなかった。「自業自得と言ってもしょうがないでしょ。大事なのはこれからどう償っていくか。ちゃんと誠意見せなさいよ。弥生と離婚したのも、どうせ君がろくに後始末もしなかったせいでしょ?」瑛介は何も言わず、唇を噛みしめた。もしこの言葉を、弥生と再会する前に聞いていたら、きっと全力で否定していたはずだ。離婚は、ただの契約結婚だったから。彼女の心には他の男がいた
以前、瑛介の母がどうしてか奈々に好感が持てないと感じたとき、彼女は自分の心が狭いのではないかと自責していた。だが今にして思えば、すべてにはちゃんとした理由があったのだ。そんな中、いつもは穏やかな瑛介の父が口を開いた。「実は、君があの娘に恩義を感じる必要はないんだ。あの子が命を救ってくれたのは事実だが、それからこの数年、うちの宮崎家が陰でどれだけ江口家の面倒を見てきたか。宮崎家の支えがなければ、江口家なんてとっくに倒産して、世間から消えていたはずだ」「そうよ。前に奈々の父親が引き受けた案件だって、会社が倒産しかけたところを、君のお父さんが助けたじゃない? 江口家も我々の権力を利用してきたわ。もちろん、命と引き換えになるような話じゃないけど......宮崎家が江口家にしてあげたことって、もう十分以上なのよ。今さら利益を少し分けて縁を切ることぐらい、全然おかしなことじゃないわ」瑛介の母の言葉に、瑛介の父も軽く頷いた。二人にとって、何より大切なのは息子の意思なのだ。そう言いながらも、瑛介の母はふと思い出したように顔に陰りを浮かべた。「もし今回の件がなかったら......奈々も悪い子じゃなかった。命の恩人でもあるし、君と上手くいくなら、それはそれで悪くなかったと思う。でも、もうダメね。この件が片付いたら、君自身のことを考えて、ちゃんと前を向きなさい。昔の人のことなんて、もう忘れなさい」この話題になると、瑛介の母の口調はどこか慎重になる。彼女はかつて、弥生をとても気に入っていた。しかし、二人が離婚したと知ったとき、彼女はただ静かにため息をついた。縁というのは、短命なものもあるのだ。だが弥生が去ってからの瑛介は、目に見えて元気がなくなり、まるで枯れかけた植物のように生気を失っていた。そのうち胃を壊し、入院までしてしまった。そんな息子の姿を見ていた母としては、なんとか立ち直ってほしいと願わずにはいられなかった。そのとき、奈々が誠意を見せてくれたため、瑛介の母はわずかな希望を彼女に託したのだった。でも、やはり奈々ではダメだった。そんなとき、瑛介が不意に顔を上げて母を見た。「自分でちゃんと決めるから」その言葉に、瑛介の母は思わずため息を漏らした。「ちゃんと決めるって......まさか、まだ弥生のことを考えてるんじゃ